プルリクエストという表現のかたち

 業務上のコミュニケーションがめちゃくちゃ得意という自己意識はあまりない。そういう人間が苦手なことを言語化しようとすることで何かしら人々の役に立ったり自分の役に立つこともあろうと思ったので、試みにこんな文章を書くことにした。

すべては表現である

 表現*1というと人類は多くの場合絵とか歌とか小説のような芸術を連想する。けれど、触れるものすべてを金に変えてしまうミダス王の手のように、人類が触れたものは全てが表現になってしまうのだ。これからその証拠をご覧に入れよう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E9%96%A2%E6%95%B0#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sin_and_cos.png

 これはwikipediaから拝借してきた三角関数のグラフだ。

「なんだこれは。ただのグラフじゃないか。これのどこが表現なんだ」みたいな向きもあるかもしれないので、少し説明をさせて欲しい。このグラフを描いた人は、多分こういうことを考えたはずだ。

「これから三角関数についてみんなに説明するためのグラフを描こう。まずx軸とy軸の向きだが、これは慣例通り横軸がxで縦軸がyでよい。なぜなら今回はいろいろな関数の中に三角関数というものがあることを知ってもらいたいので、他の関数でよく使われる軸の向きと揃えた方が比較しやすくてわかりやすいからだ」

「縦軸の目盛りは0.5刻みで±1までにしよう。なぜなら三角関数は縦軸の最大最小値が±1で、縦軸の絶対値が一番小さくなるのは0のときだからだ。0.5刻みにしておけば、±0.5のところであまりキリの良くない横軸になることもわかるだろう」

「横軸の目盛りは0.5π刻みで±3πまでにしよう。なぜなら三角関数の周期は0.5πごとにキリの良い縦軸の値が現れるからだ。値域を±3π、すなわち3周期分も取っておけば、この関数は周期性があってどこまでいってもこれを繰り返しそうだぞ、ということが伝わるだろう」

 このように、一見すると客観的な事実を淡々と伝えているだけのものであっても、どのように情報を構造化するかという部分で作り手の意図が乗る。それはもはや表現であり、これが「絶対中立で公平な報道」というものがあり得ない*2理由の一つだ。もし上のグラフで目盛りの位置を不適切にしたり値域の取り方を間違えれば、三角関数の周期性や最大値など、何の情報も伝わらない奇怪なグラフ*3が作れるだろう。

 関数を載せただけのグラフだって表現だ。じゃあ、プルリクエストは?表現だ。もちろん。

プルリクエストは何を表現するものか

 表現にはいろいろな目的があるけれど、基本的に表現というのは誰かに対して特定の心の動きをしてもらいたいためにするものだ*4。では、プルリクエストは何を目的として何を表現するものだろう。

 基本的には「何らかのデータ(多くはソースコード)に対する修正が実現しようとする改善を安全に適用する」ために「この変更は有益なものであり、よく検討され、重大な瑕疵がなく安心して適用できる」という心の動きをしてもらうための表現だ。データに対する変更がないならプルリクエストを作る意味がない。何も改善がないなら変更をする意味がない。安全でない形で適用してよいのなら何かしらの無法な手段で適用すればよくて、プルリクエストのような迂遠な手段を使わなくともよい*5

 さて、こうしてみればある程度、プルリクエストに載せるべき情報は見えてくる。

  1. 変更の目的
  2. 変更内容の検討と変更内容本体
  3. 変更内容が有害な副作用を生まないと判断する根拠
  4. 自身のスキルなどのリソース上の問題で積み残された課題
  5. 参考にした資料や議事録など

 うん?この構成、どこかで見たことがないだろうか。少し抽象化してみる。

  1. モチベーション
  2. 計画・理論
  3. 検証
  4. 課題
  5. 参考文献

 とても……論文のフォーマットに似ていないだろうか?

 考えてみれば、論文というのはその目的においてプルリクエストに近いものがあると思う。なぜならば、論文というのは「何らかの研究を学問体系の中に安全に取り込む」ために、「この研究は有益なものであり、よく検討され、重大な瑕疵がなく安心して参照することができる」という心の動きをしてもらうための手段だからだ。

 思い返せば、自分が今の職場に入るときに行った発表のときにもこのフォーマットを意識した。その結果生まれたスライドと発表は自分史上これほどうまく発表したことはないというくらい上手くいったと思っており、お陰で今の自分がある。上記のような目的のための表現手段として、論文のフォーマットは非常に優れているのだろう。古今の学者たちが紡いできた学問の営みの中で洗練され続けたきた結果の形式なのだから必然と言えるかも知れない。

おお、凄い。私vilagiaは既に神髄を理解した。我がプルリクエストを目にした者は一瞥にしてその真意を理解し、たちどころにapproveするに違いない。

と思いたいのだが、残念ながらそうはなっていない。わかりやすいと言われることもあれば、今回はちょっとわかりづらかったねと言われることもある。そこについてもう少し検討してみたいのだが、気付いたらもうこんな時間なのでその議論は後日としたい。

*1:コミュニケーションの話から表現に急に飛んだなと思われるかもしれない。ここで言う表現とはコミュニケーションのための媒介だと理解されたい。古典芸術の鑑賞は数百年数千年の時を超えたコミュニケーションなのだと思うとワクワクしませんか

*2:だからどんな偏向報道も許される、という意味ではない。ただ、それでは報道とはどのようにあるべきかという問いは自分の手に余る

*3:例えば、なぜか無意味なz軸が設けられていて無闇に立体的になっているとか、横軸の目盛りがなぜか0.4刻みになっている、みたいなものが考えられる

*4:この誰か、というのは必ずしも他人ではなくて、自分自身であることもあると思う。内省的な創作などはその類ではないか

*5:よくない。よい子の皆さんは真似をしないように